かごめかごめ物語(仮)公開版



〜〜〜蔦枝




 もう、何十年ぶりになるのだろうか。
 沙耶はしっかりと己の事を覚えていた。
 一緒に日が落ちるまで隠れん坊をして、晩い帰りに両親に怒られた事。

 その日の夕飯の内容。
 豆腐の味噌汁と叔父上が釣って来てくれた川魚の塩焼き。
 あの時叔父上が不機嫌だったのは、もしかしたら魚が原因の一を担っていたのか。

 己が山で怪我をして、沙耶に屋敷まで呼びにいって貰った事。
 叔父上は怒りに怒って沙耶を叱った。
 沙耶の所為では無いのに、勝手な人だ。

 けれど今思うと、叔父上にも叔父上なりの気持ちがあったのだろう。
 あの後、沙耶を慰めるのに本当に手間取った。

 ………………。
 ………。

 村を出たのはいつの日だったろう。
 記憶の中の沙耶の姿はまだあどけなく、一番最後の思い出の中でも8歳、9歳いっていたか如何か。

 歳は随分と離れていたけれど、遊んで呉れとせがむ沙耶が如何にも可愛くて、毎日の様に子供の遊びに付き合っていたような気がする。
 そう、その中には正二の奴も混じっていて、そもそも奴が沙耶の世話をしないから己が………。ふふっ、それに勿論、蔦―――

 ………………。
 ………。

 ………………。
 ………。

 沙耶から篁町の近況を聞いた。
 長らく育ててきた果樹園の苗代が、漸く収穫が出来るようになったらしい。
 そう云われてみれば、その昔そんな話を聞いた事が無いこともない。

 当時我が国は日清戦争に勝利し、国内の景気は鰻上りだった。
 叔父上としても此処は投資の好機と見たらしく、国の金回りの良いうちに果樹園を倍に広げてしまおうと計画していたようだが………。

 まあ、上手くいったかどうかは兎も角、篁の果樹園は倍に広がり暫く没落しそうも無いのは確かだ。
 開拓が少々強引過ぎて、土砂崩れや泥水が用水路に流れ込む事などは、今もあるようだが。今は正二の阿呆がその対策に追われている。

 ………………。
 ………。

 前の診療医の五作爺さんは食中りで死んだ。
 山で物を拾い食いして、そのまま逝ったそうだ。
 無愛想で薄気味の悪い男だったが、少なくとも己は嫌いではなかった。

 如何云う訳か己はあの年寄りに好かれていて、度々山から戻る度にアケビだの山菜だのを、口煩い叔父上に内緒でご馳走してくれたからだ。

 だから少し残念だ。

 思い出すのも憚られるが、己は跡継ぎだったからな………。
 もう両親も他界していた事もあった。叔父上はそんな己が不憫だったのか、過保護を通り過ぎる事もしばしばだった。

 今思うともう少し………自分の子供達の世話も考えるべきだったのではないかと、あの人に関しては思う。

 ………………。
 ………。

 下の町に新しい大きな水車が出来たらしい。
 今度一緒に行こうと沙耶に誘われた。
 昔に戻ったかのような気分だ。
 あの頃は何か珍しい事が起こると、退屈なので何でもかんでも、篁兄妹と一緒に見物に行ったものだ。

 念の為、あの手紙を出したのは沙耶かと聞いてみた。
 ………芳しくない。
 一体何処の誰が………。

 ………………。
 ………。

 そう、そうだった。
 あの六郎という男。
 酔狂な事に今は篁家の者どもだけで無く、町方どもの世話もしているらしい。

 裏庭の物置に使っていた東屋を改造して、其処でひっそりと診療所をしているとか………。
 全く、変わり者だ。
 己の領分だけこなしてれば良いものを、何を好き好んで―――面白そうな男だ。

 興味が湧いた。
 もう外向けの診察時間は終わっているらしいので、少し邪魔をさせて貰う事にしよう。

 ………………。
 ………。

 此処か………。
 そう云えば庭の片隅に、こんな建物があったような気もする。
 裏庭のかなり外れの方にあるので、特に用事が無ければ立ち寄る事も無く………半ば完全に人に忘れられた建物と呼んでも等しい。

 東屋―――いや、診療所の前に着いた。
 朽ち掛けだったその姿は再び息吹を取り戻して、『所療診』と垢抜けない小さな看板が、ぞんざいに入り口に立て掛けてある。

 ん………。
 建物の中から微かな物音がした。
 まだ診察が終わっていないのだろうか。

 出直すべきか………?

 ………………。
 ………。

 裏口に回ってみると戸が開いている。
 少し、様子を見てみるか。

#イベント絵 蔦枝 半裸で診療所

【総一郎】っ………?!

 なっ……!

 言葉が見つからなかった。
 此の驚愕と、得体の知れない此の気持ち。其れをどんな言葉で紡げばいいというのか。
 使い古された陳腐な言葉で云うならば、それは「筆舌に尽くし難い」と表現するのが正しいのだろうか。

 けれど、人は本当の驚愕に出会った時、其れを言葉にする事など出来はし無い。
 彼女の其の姿は、嫌でも己をその回答に導かせた。

 ………………。
 ………。

 何て………白い肌だろう。
 何て華奢で、女性的な身体の線だろう。
 何て………美しい人なのだろうか。

 遠い日の憧憬が淡く其の侭に返り咲いて、やさしく人を包み込む。

 此の女性は己の憧れだった。
 やさしく、淑やかで、日本人形の様に古めかしい美貌を持っていた。
 和歌や詩篇を好み、口数は少なかったけど風流な人で………そう、節句などの祝い事になると、其れはもう艶やかな錦の着物を着込んで………。そして澄んだ微笑で笑うのだ。

 己だけじゃない。
 正二にとっても、沙耶にとっても―――彼女は己達の自慢の姉だった。

 ………………。
 ………。

 年甲斐も無く胸が高鳴っている。
 いつもなら己自身に恥じ入る所だが、此の人の前だけは特別だと思う。
 何故なら此の人は己の―――

【己】………………。

 あ………。

 ………………。
 ………。

 ………………。
 ………。

 魔法が解けたように己は正気に戻った。
 彼女との思い出を追い掛けて、記憶を駆け上った果ての結末が、其れだった。

 後悔。
 後悔と、無力感と、己の不甲斐なさ。
 それと―――それと安堵。

 其れがぐるりぐるりと胸の中を駆け巡って、現実に引き戻す。

【己】よ、かった………。

 独り言は言葉にも為らなかった。

 長年己を追い詰めて来た物思い。
 其の一つが今漸く、硬い氷塊を溶かし始めている予感がする。

【己】………………。

 よかった………。

 ………………。
 ………。

 本当に………よかった………。

【己】………………。

 あの日から彼女は、立つ事すら侭為らなくなった。
 食事すら満足に出来ず、己は………敬愛する姉の痛ましい姿に耐えられ無かった。

 その彼女が………今は診療所の椅子に腰掛けて、健常者の姿を見せている。

【己】っ………。

 声を掛けたい。
 こんな場所じゃなかったら、今直ぐ声を掛けて彼女の無事を祝いたい。
 そうだ、表口から知らないのを装って押し掛けてみようか。

 言葉はもう喋れるのだろうか。
 何か障害が残っていたりしないのか。
 心配だ。

 糞っ………。

 じゃりっ……。

#差分、蔦枝総一郎に気づく 横目で薄く笑う

 しまっ―――ぁっ……。

【女性】………………。

【女性】………………。

 焦点の合っていない、酷く儚げな瞳が………薄く微笑した。

 っ………!
 心臓を鷲掴みにされた思いだ。
 急に息が苦しくなって、頭までクラクラと目が回る。

【女性】………………。

 その瞳は静かにジッと己を凝視して放しては呉れない。

 何て儚い瞳だろうか。
 彼女は………記憶の中、其の侭の彼女ではない………。
 まるで抜け殻の様に彼女の人間の部分が失われているかのようで、其れがまた酷く己の胸を締め付けた。

【女性】…………さい。

 小さな唇が何かを呟いた。
 よく聴き取れない。

 何て言ったのだろう。
 必死に唇が生んだ音色を頭の中で巻き戻す。

【女性】………………。

【六郎の声】おや………誰かいるのかい?

 っ……!?

【己】い、いや………。

【六郎】おや、その声は総一郎さんですね。如何されました?

【己】………………。

【己】………………。

【己】少し………話せるか……?

【六郎】構いませんよ。

【六郎】ただ………少しだけお待ちいただけますか?彼女の診察がありますので。

【己】あ、ああ………。

【六郎】………では、失礼。

#画面ブラックアウト

 パタン。

 裏口の戸が閉められた。
 二人に拒絶された様な錯覚が、一瞬だけ己を包み込む。
 子供染みている………。

 己は………何をそんなに怯えているのだろう………。




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